|
金門島は北緯24°22'、東経118°33'で、台湾の金門県にあります。
この地図では、中国大陸の「厦門市」の右方向にある島の1つです。
金門県は台湾の省轄県で、台湾語では「キンムン」と発音されます。
台湾語はホーロー語といい、台湾人口の74.5%以上にとっての母語になっています。
台湾の客家人、外省人の中にもこれを日常的に使っている人も多く、原住民族もこれを理解できる人もいます。
歴史的には中国福建に属しています。
中華人民共和国の行政区分上は、晋江(シンコウ)市の管轄となっています。
晋江市は、福建省泉州市の県級市で、古来より経済、軍事、文化などの要衝として海のシルク・ロードの起点の一つでした。
国共内戦後、連江県(馬祖島)、台湾島、と同様、中華民国支配地域内にあり、現在、中華民国に於ける福建省政府が置かれています。
金門県
金門県の面積は153.056k㎡で、戸数は80,191戸(2007年9月)です。
県木は木綿、県花は四季蘭、県鳥は載勝です。
金門県は、九龍江口や廈門湾口を望む大金門島、小金門島および大胆島や二胆島など12の島嶼から構成されています。
中国福建省南部にある地級市で、国際的にはアモイ (Amoy) として知られている、中華人民共和国側の厦門市とは、海を隔てて接しています。
厦門市とは最小2.1kmしか離れておらず、国共内戦期間中は最戦線でした。
地図で見える台湾海峡にある群島は澎湖諸島で、大小併せて90の島々から成りますが、人が住んでいる島はそのうちの19島です。
金門は亜熱帯海洋性気候に属し、4月から9月にかけてが最も降水量が多いです。
年間平均降水量は1,049,4ミリ、年間平均気温は20.9℃です。
地質は花崗岩が主体で、農業には適していません。
金門島は、かつて、鄭成功による反清復明の抵抗の拠点になったことがあります。
鄭 成功(1624-1662)は中国明代の軍人、政治家で、清に滅ぼされようとしている明を擁護し、抵抗運動を続けました。
明は1644年に李自成が北京を陥落させ崇禎帝が自殺して滅亡し、満州人の清朝が最後の王朝として中原王朝の座を掌握しました。
このとき逃れた明の皇族たちは各地で亡命政権を作りました。
鄭芝竜達は唐王朱聿鍵を擁立し、李自成を滅ぼし中国支配を行おうとしていた満州王朝の清に対しての抵抗運動を始めました。
この時に元号を隆武と定めましたので朱聿鍵は隆武帝と呼ばれます。
父により隆武帝に引き合わされ、眉目秀麗でいかにも頼れそうな鄭森は大いに気に入られ、国姓の朱を与えられました。
しかし、恐れ多いと国姓は使わずに鄭成功と名乗りました。
隆武帝軍は北伐を敢行しましたが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝竜はこの軍に将来無しと見て清に降参しました。
父が投降するのを鄭成功は泣いて止めようとしましたが、鄭芝竜は意思を変えず、父と子の道は別れることになりました。
その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていましたので、これを明の正統と奉じて抵抗運動を続けました。
まずアモイ島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握しました。
1658年、鄭成功は17万5千の北伐軍を興し進発しましが、途中で暴風雨に会い、300隻の内100隻が沈没しました。
鄭成功は温州で軍を再編成し、1659年3月25日に再度進軍を始め南京を目指しました。
途中の城を簡単に落としながら進みますが、南京では大敗してしまいました。
敗軍の鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、ここを占拠していたオランダ人を追放して根拠地としました。
こうして、鄭 成功は台湾を占拠し抵抗運動の拠点としましたが、そのすぐ後に死去しました。
その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれました。
1840年~1842年の阿片戦争で清朝がイギリスに敗れると、植民地化が始まり、日清戦争で日本に敗れ列強による植民地化が進行しました。
1911年の辛亥革命を契機として、1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)しました。
その後も日本やイギリス、フランスやドイツなどの列強による中国大陸の局地的な支配が続きました。
1930年代の満州国の建国や、その後に発生した日中戦争において、中国大陸の多くの部分が日本によって統治されましたが、1945年の第二次世界大戦における日本の敗北によって、日本が中国大陸から撤退し、中華民国が連合国(戦勝国)の1国として中国大陸を改めて完全統治する体制が整いました。
その後、日中戦争をはさんで断続的に行なわれていた国共内戦において、ソビエト連邦からの支援を受けていた中国共産党率いる中国人民解放軍が、第二次世界大戦の終結後にアメリカからの援助が減っていた中国国民党率いる中華民国国軍に対して勝利をおさめ、1949年に共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国が樹立され、翌年までに台湾および福建省の一部島嶼を除く中華民国の統治国土を制圧しました。
中華民国政府は台湾島に遷都し、その後台湾島とこれらの島嶼地域は現在中華民国の統治下にあります。
金門県は馬祖島とともに中華民国軍の軍事的拠点となり、1956年より軍政がひかれ、一般観光客の出入りは厳しく制限されていました。
1958年には対岸の中国共産党軍との間で激しい砲撃戦による金門砲戦が発生し、多数の死傷者を出したものの、台湾軍は金門島の防衛に成功しています。
1992年11月7日の戒厳令解除後は、三通政策の影響もあり、多くの観光客が訪れる島となっています。
1995年には台湾6番目の国立公園・金門国家公園に指定されました。
島外とは、空路による交通が主となっています。
現在金門空港から定期便が運行されているのは、台北(松山空港)、台中、嘉義、台南、高雄の各都市です。
また、料羅港及び水頭港から対岸の中華人民共和国への海運路線も、限定的ながら開設されています。
大小金門間は、海路交通での連絡となっています。
金城鎮水頭港と烈嶼郷九宮碼頭の間で連絡船がで結れています。
代理管轄している烏?郷へ行くには、金門県からの直通交通手段はなく台中を経由しなければなりません。
また、水頭港は大陸との小三通出発地点に指定され、厦門和平港及び泉州石井港の間に航路が開かれています。
金門では台湾島同様に?南語(台湾語)が話され、馬祖島で話される?東語とは系統が異なります。
金門は1937年11月2日からの日本統治時期が短く、日本語教育も受けなかっため、台湾島のような日本植民地時代に流入した日本語からの借用語もほとんどありません。
金門県では1993年から県長の民選が行われています。
1993年12月20日~2001年12月20日は陳水在(中国国民党)、2001年12月20日~現在は李?烽(新党)が当選しています。
高等教育機関には、技術学院として国立金門技術学院があります。
特産品としては、高粱酒、貢糖、麺線、一条根、などがあります。
|
|
金門島
金門島は中国大陸沿岸、馬祖島の南西、福建省の厦門までわずか数キロという位置にある島です
。
廈門市は、中国福建省南部にある地級市です。
中華人民共和国の5大経済特区のひとつであり、副省級市にも指定されています。
思明区、湖里区、集美区、海滄区、同安区、翔安区の6市区によって構成されています。
金門島の約四分の一が国立公園となっています。
馬祖島と同じく中華民国福建省に属します。
馬祖島は中華人民共和国の福建省連江県に接しており、南竿、北竿、東?、西?、東引、亮島、高登、大?、小?、及びその他の小島から成ります。
馬祖の連江県政府庁舎は南竿島の南竿郷介寿村にあり、ここが馬祖の中心地となっています。
中華民国政府はこの島を長く軍事拠点としてきましたが、台中間の軍事的緊張の緩和により、現在は中華人民共和国側の国民も渡航を許可されています。
両島とも日本統治を受けていませんので、台湾島より中国文化の色が濃く残っています。
国共内戦時代に中国大陸との戦闘の最前線でした。
1949年、国共内戦の結果国民政府が遷台した後、政治的な理由により両岸の交流は一切が断たれました。
当時の行政院は1977年に取締匪偽物品管理弁法を定めるなど、両岸交流を否定的に捉えていた。
1979年元旦、中国は台湾同胞に告げる書を発表、その中で両岸間で、通商、通航、通郵の三通を速やかに実行するとの提案がなされました。
当時台湾で実施されていた三不政策によりこの提案は無視されました。
1987年、台湾政府は戒厳令解除後まもなく台湾地区住民の大陸への観光及び親族訪問を解禁しました。
しかし三通方式は拒否し、香港を経由し大陸を訪問する方式が採用されました。
その後両岸交流が深まり、特に台湾資本による中国投資が増加すると、三通に対する要望が経済界から出されました。
1997年香港が、1999年には澳門が中国に返還されたことで、特別行政区を経由した一種の三通が発生しました。
また2001年1月1日には小三通と称し、金門島と厦門の間で、通郵、通商、通航における限定的な人や物の交流が実施されています。
更に2003年の春節期間中には、両岸間で直行便が運行され、途中形式的に香港を経由して1月25日に第1便が運行されました。
両岸の経済交流が促進されることで民間からの三通実施への要望が強まり、政府が堅持する三通拒否反対の声は日増しに高まっています。
これらの状況により台湾では今後三通実施への政策転換が予想されますが、政治的対立もあり実現のメドは立っていません。
かつては台湾本島との往来が厳しく制限されていましたが、現在では制限は解除されており、比較的容易に行くことができます。
往時の軍事施設のいくつかは観光客向けに開放されています。
また、小三通政策により、中華人民共和国との交易が活発化した。現在も中華民国の施政下に置かれ、馬祖島県政府は観光事業を展開しています。
夏は雨が多く、冬は東北の季節風が強く乾燥する気候ですが、亜熱帯に属することもあり、平均的に温暖です。
小金門島
小金門島は烈嶼とも呼ばれ、金門島の西南・金門と廈門の間に位置します。
人口は約5,000人、総面積約15k㎡です。
花崗岩の岩盤が露呈し、丘陵は起伏が激しく、海岸は入り組んで複雑。四方の潮の流れによって沖積して形成された美しい真っ白な石英の砂浜が、島特有の地理的景観を構成しています。
近年は両岸関係が次第に緩和し、金門の軍事管理も解除され、戦地としての役割からは次第に退き、代わって、自然と史蹟に恵まれた海上公園が烈嶼としての新しい顔となってきました。
|
|
|